OUR dialogue#1『ポストモダニズムにおけるフィクションの可能性』

OUR dialogue#1 『ポストモダニズムにおけるフィクションの可能性―さまざまな物語に向けて―』、9月4日(土)16:00から、古賀徹さんをお迎えし開催します!

OUR dialogue は、さまざまなジャンルで活躍する方をゲストに迎えて行うトークイベントです。初回の今回は、哲学・倫理学・デザイン原論を研究されている古賀徹さんをお迎えし開催します。

テーマはポストモダニズムにおけるフィクションの可能性。難しそうなテーマですが、専門的な知識は不要。「現代思想」のことを全く知らない方もお気軽に参加していただける内容です。今回はまず、「モダニティ/モダニズム/ポストモダニズム」や「フィクション/物語」といった現代社会を読み解く上でのキーワードを解説し、今日においてどのようなフィクションが有効なのか、解きほぐしていきます。ゼロ年代を経た僕たちは、何を信じるべきなのか。そのヒントを見つけにきてください。

なお、OUR dialogue は一方的な講話ではなく、講師と参加者が、あるいは参加者同士がまったり対話することを目指します。まず古賀さんにレクチャーをしていただいた後、古賀さんを中心におしゃべりしましょう。哲学や現代思想なんて難しいと思っていらっしゃる方もどうぞお気軽にご参加ください。

■OUR dialogue#1『ポストモダニズムにおけるフィクションの可能性―さまざまな物語に向けて』
■講師: 古賀 徹(九州大学芸術工学研究院准教授)
■日時: 2010 年9 月4日(土) 16:00 – 18:00
■会場:Social Kitchen 2F space( 京都市上京区相国寺北門前町699)
■料金: 500 円
■定員: 20 名
■申込方法: お名前・ご連絡先を明記の上、our2you[at]gmail.comまで事前に申込くだい。

□講師プロフィール
古賀徹(こが・とおる):現代哲学の立場からデザインの認識論・存在論・倫理学を探求する。主要著書として、『超越論的虚構』(情況出版)など。2004 年より濃密な討論を行うことを目的とした「アート・オープン・カフェ」を開催。その成果は、『アート・デザイン・クロッシング』(vol.1-2)として出版されている。また2007 年より、福岡を中心に様々な文化的出来事をレビューし、web上にて公開するプロジェクト「give the wordproject “donner le mot ”」を行っている。

□OUR dialogue#1 Staff
企画/ファシリテータ―:安河内宏法,デザイン:中居真理,Sweets:多胡真佐子

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OUR dialogue#1『ポストモダニズムにおけるフィクションの可能性』 への5件のフィードバック

  1. paprica より:

    京都にはこんな楽しそうなグループがあるのですね。
    ワードプレスの人気記事から飛んできました。残念ながら太平洋の向こう側にすんでいるので講演に参加できませんが、いろいろな分野で活躍されている方のお話などはとても興味深いです。

    • ourkyotoblog より:

      papricaさん、こんにちは。コメントありがとうございます。OUR blog初のコメントが海外からなんて、なんだかすごいですね。
      僕たちはまだ活動をはじめたばかりで、これからどうなるか分かりませんが、ぼちぼちやっていきますので、ブログをたまにのぞいてみてください。
      それとイベント終了後には、このブログで活動報告みたいなことをしたいなとも思っています(けれどこちらもどうなるのか未定です)。

  2. kandaipon より:

    ぜひぜひネット配信してください。

    • ourkyotoblog より:

      kandaiponさん、こんばんは。京都は暑い日が続いていますが、そちらはいかがですか?
      ネット配信も出来たらいいですねー。USTとか使って。検討してみます!
      kandaiponが京都に来ることあったらぜひ遊びに来てください。

  3. yoneda より:

    講演面白かったです。フライヤーみたとき、使われている用語はほとんどわからなかったのですが、講演のなかで言葉の定義や整理をしてもらえて理解できました。知らなかった言葉にとっつけるようになるのはとても嬉しいです。用事があり、途中で退出したので、社会的環境と個人の関係のあり方についてどう考えられているか訊けず、それについては残念でした。
    「現実」というものが恣意的に構成・創造されたり、維持されていく社会的環境があると思います。たとえば、KYという言葉がマスメディアや人々の口に出されるなかで、急速に「現実」化し、固着化し、誰かにとって都合よく人を抑圧する力をもち始めるというような。表現がそのような抑圧や固着を相対化したり、解体するものとして力をもつというのはわかります。そのうえで訊きたかったのですが、社会的な「現実」はどの時代でも、力を持つものの言説によって創造され、構成され、維持されていくものと思います。国というマクロな水準でも、地域や家など相対的にミクロな水準でもそれはおこっていると思うのです。それに対してアーティストだけでなく、ただの個人がどのような抵抗の姿勢をもてるのか。それは僕は普通に必要なことだと思うのですが、表現を自分のものとして手に入れる個人のあり方、あるいはそれを可能にするつながりのあり方に何かのイメージを持たれているかどうか訊きたかったです。

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